企画展ご案内


小栗上野介とその時代

幕末の吾妻

  1998.7.18(土)〜9.20(日)

--- 中之条町歴史民俗博物館 ---

小栗上野介忠順,おぐりこうずけのすけただまさ(1827〜1868)
小栗上野介(幼名 剛太郎)は,文政10年(1827)江戸駿河台(現,東京都千代田区)に生まれた。小栗家は,旗本(2500石取)の名家で,父忠高は,新潟奉行を勤めた。安政2年(1855),父忠高の死後,跡目を相続し,「又一」と改名した。「又一」は小栗家の襲名であり,先祖の小栗忠政が,度々「一番槍」をしたことから,又一番槍(またいちばんやり)と褒められ,家康より「又一」という名を賜ったという。
安政6年(1859),目付となり,翌正月,遣米使節の一員として渡米,ワシントンで日米修好通商条約の批准書の交換を果たし,9月に帰国。同年,ロシア軍艦の津島占拠に対し,文久元年(1861),現地に赴き,退去の交渉に当たった。その後,勘定奉行・江戸町奉行・陸軍奉行などを歴任した。
元治元年(1864),軍艦奉行に任ぜられ,横須賀製鉄所(造船所)建設に向けて,その力が注がれたが,この事業は後に,明治政府に引き継がれ,横須賀軍港の基礎を築くことになった。また,歩・騎・砲三兵の編成による近代陸軍の軍政改革を積極的に進める一方,横浜にフランス語学校を開校している。
慶応4年(1868)正月,鳥羽伏見の戦いに敗れ,江戸城へ戻った前将軍徳川慶喜に対し,勘定奉行兼陸軍奉行であった小栗は,官軍との徹底抗戦を主張したために罷免された。同年3月,知行所であった上州権田村(現,倉淵村)に土着したが,2ヶ月の閏4月6日,官軍に捕らえられて斬首された。(享年42才)



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