第6回埋もれた郷土の芸術家


大塚榛山展

  2000.2.22(火)〜3.20(月)

--- 中之条町歴史民俗博物館 ---



ごあいさつ
  館長 居澤 定市

 本日はご来館下さいまして、ありがとうございます。この企画展は、郷土のすぐれた先人の芸術活動を紹介し、地域文化を再認識すると共に、文化の向上に寄与する目的で開催する「第6回 埋もれた郷土の芸術家展」であります。
 第1回 彫刻家町田清澄作品展、第2回 日本画家石原清華作品展、第3回 洋画家田中稲三作品展、第4回 歌人井上重徳展、第5回 萩原秋水展を開催いたしました。今回は、吾妻郡萩生村(現、吾妻町)出身の日本画家、大塚榛山を紹介いたします。
 開会に当り、ご協力をいただきました樹下春様をはじめ多くの方々、また吾妻町および同町教育委員会の方々に厚くお礼申し上げご挨拶といたします.
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おおつかしんざん
大塚榛山<1871〜1944>について
 大塚榛山は、日本画家として法隆寺金堂壁画(昭和24年1月26日焼失)の模写をしたことで有名である.
 榛山は、明治4年4月15日に吾妻町萩生で生まれた.父七郎平は、農業のかたわら酒造業もしており経済的には恵まれていた.七郎平は、碓氷郡烏川の上流より鼻曲山の山道を切り開いて、長野県沓掛へ抜ける新道をつくった人で公共心に厚かった。しかし、「農家の後継ぎに学問は不要」と、榛山に対しては、絵本・絵草紙を読むことまで禁じた.小さいときから絵を描くことが好きだった榛山に、母は筆・墨・絵異などを、父にかくれてそっと買い与えたという。
 萩生小学校を卒業し、中之条の吾妻高等小学校に入学し、寄宿舎に入った。そのころから花鳥、人物などを描いて人を驚かせるような才能のひらめきを見せた。在学中に母が病気になり、家から往復30km以上もある山道を徒歩で通学した。間もなく、母が病死したため、小学校卒業後は父を助け農業に専念したが、榛山の才能を惜しむ河辺梅白等が父七郎平を説き、ようやく画家となることを許された。
 上京した榛山は、南画の大家滝和亭(1832〜1901)の弟子となり、明治22年(1889)榛山という雅号を授けられた。
 その後、古美術の多い京都・奈良に行き、古社寺巡りをしている最中、法隆寺金堂壁画にひかれ、壁画模写に携わった.その頃、桜井香雲(1845〜1895?)が奈良に来ていて、その宿をたずね、壁画着色の方法を学んでいる。やがて、壁画関係の仕事が多くなり、榛山は壁画家として広く知られるようになった.また、吉野神社宮司堀重信の委嘱により、南朝の遺蹟、宝物などの写生をした。高野山の諸寺院、近畿の社寺を訪れ研究を積むと共に、藤原時代の仏画技法である切金法(きりかね)の習得を果たし、古美術の修復などに応用していった.
 大正14年(1925)、家族と共に郷里にもどったが、その後も、年の半分は奈良で過ごす生活を送っている.残された作品をみてみると、仏画を中心に花鳥・人物・山水画など多岐にわたっている。昭和19年2月5日、享年73歳で病没した。

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年譜

明治4年(1871)
4月15日 吾妻郡萩生村(現、吾妻町)に大塚七郎平の長男として生まれる。本名丈治郎。萩生小学校卒業後、中之条の吾妻高等小学校へ入学。卒業後、家業の酒造業農業に従事。
明治20年(1887) 
この頃、上京して南画家の滝和亭の弟子となり、花鳥風月画を学ぶ。
明治22年(1889) 
9月23日、師滝和亭により雅号を授けられる。榛名山に因んで榛山と付けられた。
明治23年(1890) 
この頃、京都・奈良で古美術の研究をする.東京帝室博物館(現、東京国立博物館)の障壁画で知られた桜井香雲より壁画着色の秘法を教わる。法隆寺金堂壁画の模写を委託される。
明治32年(1899) 
この頃、法隆寺近くの旅館の娘佐米と結婚。本願寺の老僧により、日本古来の切金法を伝授され、仏画に金箔を施す技術を会得する。
大正4年(1915) 
仏画家として名声あがる。
大正14年(1925)
11月、一家全員萩生に帰郷。以後子供は萩生に残し、夫妻は夏を萩生で、冬は奈良でと往復し、晩年は萩生で生活した。
昭和16年(1941) 
9月29日、妻佐米没。(享年61歳)
昭和19年(1944) 
2月5日、榛山没。(享年73歳)
昭和24年(1949)
1月26日、法隆寺火災。金堂壁画焼失。 (吾妻町中央公民館「大塚榛山展」の年譜により作製)


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(中之条町歴史民俗資料館提供資料より複製)
(注意)中之条に行ってんべえは,個人で運営されています。公的なものではありません。 produced by Kogure Hiroshi



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