萩原秋水(はぎわら しゅうすい) 1872〜1942 萩原秋水は,明治5年(1872)2月22日,長野原町大字与喜屋(よきや)の萩原家に萩原太右衛門・うらの二男として生まれた。幼名を幸内,家を嗣いで太一郎を襲名した。秋水(しゅうすい)は雅号である。 秋水は,小学校卒業後,前橋の幽谷義塾で国漢を学び,18歳で母校与喜屋小学校の教員となる。この頃,夜学会や青年会などを創設した。その後,上毛新聞社の記者となったが,父の没後,郷里に帰り25歳で町会議員,31歳のとき町助役,明治40年(1907)と大正8年(1919)に群会議員に当選している。 事業家としても活躍し,草津馬車会社・旅館七星館・吾妻印刷株式会社の経営者をつとめている。とくに,大正7年,吾妻印刷株式会社を創立したが,この頃より中之条町に住み,郡内温泉案内など,吾妻の自然・風土・文化をまとめて刊行している。 多岐にわたる活動の中で,書画・短歌・俳句・文芸など多くの作品が残されている。中でも,書画には天才的な才能が発揮されている。 昭和17年(1942)3月8日,71歳で病死。 |