企画展ご案内


祈りと信仰遺物

  1999.7.20(火)〜9.15(水)

--- 中之条町歴史民俗博物館 ---



群馬県指定重要文化財 長光寺懸仏 虚空蔵・弥勒・観音菩薩


企画展開催にあたって
          館長 唐澤 定市

 中之条町歴史民俗資料館の平成11年度第1回企画展は「祈りと信仰遣物−懸仏を中心に−」をテーマとして開催いたしました。四方を山々に囲まれた中之条町には、古代から山々を信仰の対象として拝む山岳信仰がありました。中でも、四万川の水源の山である稲包山(いなつつみやま)に対する山岳信仰は厚く、山頂に奥宮、登山口の譲葉(ゆずりは)に中祉、下流に里宮として原町の人宮巌鼓(いわつづみ)神社が祀られております。四万川中流の貫湯平(ぬくゆだいら)にある稲裹神社(いなつつみ)(この社はかつて熊野神社として祀られていた) には、鎌倉時代末期の作と推定される懸仏(かけぼとけ)が所蔵されており、円盤に熊野三所権現の像をつけています。また、もう一面は蔵王権現の像をつけたもので、その頃の神仏習合思想の様子が伺われます。やがて山岳信仰と仏教の密教化により修験道の信仰が広がると、持ち運びの容易な懸仏は全国各地にもたらされました。 今回の企画展では、群馬県内でも数少なく、美術的な評価の高い稲裹神社の懸仏二面をはじめ、県内各地の懸仏、役行者尊像などの信仰遺物を展示いたしました。企画展開催にあたり、近藤義雄・田浦浩・一場亥之作様をはじめ、展示品貸与などに御協力を下さいました皆様に心より御礼申上げて、御挨拶といたします


懸仏について
群馬県文化財保護審議会長 かみつけの里博物館 館長 近藤義雄

 日本では三種の神器に象徴されるように、鏡に神秘的な霊力を感じ、古くから神々の御神体(みしょうたい)・御正体として神殿に安置してきた。群馬県内では、貰前神社に奈良時代の白銅月宮鑑(はくどうげっきゅうかん)があり、前橋市の八幡宮には伯牙弾琴鏡(だんきんき)などもある。
 やがて、平安時代の神仏習合思想が進むと鏡面に仏像を描く鏡像を神殿に安置するようになる。この鏡像を神殿内に吊(つる)すことから御正体と呼び、紐(ひも)で吊して神座(かみざ)に懸けるので一般に懸仏といわれるようになった。
 懸仏は、鏡版と仏像を同時に鋳造(ちゆうぞう)したものと、版と仏像を別鋳したもの、或いは版に仏像を線刻したものなどがある。例外的ではあるが、利根郡利根村日向南郷(ひなたなんごう)の諏訪神社のように、木製の円版に墨書した江戸時代の懸仏などもある。ほとんどが神仏習合の強く信じられた中世に造立され、『群馬県史』資料編8には五三基の中世懸仏が記録されている。その後の発見や発掘調査によるもの、江戸時代のものなど合計すると六〇基以上が確認されている。
 県下の在銘懸仏で最古の銘をもつものは、伊勢崎市宮前町の赤城神社に納められていた千手観音坐像を線刻したもので、弘長四年(1264)の銘がある。無銘では、上信越新幹線工事の発掘調査による箕郷町下芝遺跡発見のものや、榛名神社のものがある。前者は八稜鏡(はちりょうきょう)の鏡面に、阿弥陀如来と釈迦如来と思われる二仏を線刻している。また、後者は平安時代後期の藤花房松鶴図の鏡面に、十一面観音像を毛彫りしてあり、二面とも平安時代後期の作である。
 中之条町四万稲裹神社蔵二面は、虚空蔵・弥勒・観音菩薩(こくうぞう,みろく,かんのん)の三尊を鏡版と同鋳したものと、蔵工権現像と版を別鋳したものとがあり、前者は鎌倉時代後期、後者は室町時代初期の優品である。ともに県内を代表する懸仏であり、鏡版と仏像が完全に揃っている。
 また、鏡版と仏像別鋳の場合は、出〃貫湯平 稲裹社仏像の台座までは像と同鋳であり、なかには背面から仏像を打ち出した押し出し仏もある。押し出し仏は室町時代以降で、尾島町世良円長楽寺には、寛永一七年(一六四〇)銘の大きな懸仏もある。鏡版の直律は数十センチもある。
 以上様々な懸仏が県内各地に保存されているが、近世にははとんど造られなくなる。神仏習合(しんぷつしゅうごう)の信仰に変化が生じてきたのであろう。


修験道と熊野信仰

 周囲を山に囲まれた吾妻地方には、古代から山岳信仰が行われていた。山岳には、農耕を守護する水分神(みくまりの神)がこもる聖地があり、そこに奥宮を祀り、そこから流れ出す川の流域に沿って、中社・里宮が祀られていることが多い。
 修験道(しゅけんどう)は、日本に昔からあった山岳信仰が仏教・道教などの影響のもとに、平安時代中期ごろまでに成立した宗教である。山岳修行による超自然力を獲得し、 その力を用いた呪術(じゅじゅつ)による宗教的な活動を行う実践的な信仰が修験道である。この修行の場は、葛城(かつらぎ)・上口野・熊野(くまの)などの山岳であったが、葛城山の役小角(えんのおづの)(役行(えんのぎょう)者)は、奈良時代の代表的山岳修行者であり、修験道開祖として崇(あが)められている。
 平安時代になって、天台・真言の密教僧によって山岳修行が盛んとなり、大和の大峯山と、その北に位置する金峯山(きんぷせん)(吉野)、南の熊野が拠点として栄えた。寛治(かんじ)四年(一〇九〇)正月白河上皇(じょうこう)の熊野詣(くまのもうで)の折、園城寺(おんじょうじ)の…僧増誉(ぞうよ)が熊野三山 (本宮・新宮(しんぐう)・那智(なち)) 検校(けんぎょう)となり、後に増誉の開いた聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の覚助法親王(かくじょほっしんのう)が熊野二山倹校になってから歴代の聖護院門跡が熊野修験を統括して、本山派と呼ばれる修験の宗派が形成された。これに対して、大和を中心とした三十六ケ寺の修験者が、大峯山中の小笹(こざさ)に本部を置き興礪寺・法隆寺金堂などにより当山一二十六先達(せんだつ)という組織をつくった。そして、吉野の金峯山で修行した聖宝(しょうぼう)の開いた醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)の統括下に入り、当山派(とうざんは)と呼ばれた。
 吾妻地方にも古い時代から修験道の信仰が入っていたが、本山派の修験者によって熊野祉が祀られている。その分布をみると、吾妻川をはじめとする川の流域に多く、昔の道‥筋に沿って社があったことがわかる(別図参照)。また、文化九年 (一八一二) 二月「上野国本山山伏名所記」 (前橋市立図中古館蔵)によると、郡内には五二ヶ寺が記されており、熊野神社との関係も深いことが知られる。

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熊野神社分布図


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