〜 館長 唐澤定市氏挨拶より抜粋〜
企画展開催にあたって
20世紀とは、1901(明治34)年から2000(平成12)年までをいいます。明治34年1月2日と3日の
報知新聞には、「20世紀の予言」が発表されていて、その中には「無線電話の進歩」、「写真電話」、
「鉄道の進歩による時間短縮」、「馬に代って自動車交通の普及」など物質文明の発達が予言されて
いるほか、医学の進歩や蚊や蚤などの滅亡などもあげられています。20世紀はじめに、夢のように
考えていたことのいくつかは、この100年の間に実現していることは注目に値するところです。
激動の20世紀は、人類史上まれにみる飛躍をはたした世紀でありました。しかし一方では、大き
な戦争や環境破壊など様々なマイナス面を生じさせました。21世紀を迎え、最初の企画展となる今
回は、「温故知新展」ということで、20世紀をふりかえることをメインテーマとして開催いたします。
今から100年前というと、中之条町では、群馬県で最初の農学校である郡立吾妻農学校(現中之条
高等学校)が開校しています。
この企画展では、中之条町を中心に集められた100年間100枚の写真を展示するとともに、これ
までに資料館に寄せられた戦時中の資料をはじめ様々な20世紀の資料を展示いたしました。町の
移り変わりや風俗・生活の変化などを通して、20世紀を回顧しつつ、新世紀の方向性を見出せる展
示会になれば幸いです。
最後に、ご協力ご指導下さいました多くの方々に厚く御礼申しあげ、ご挨拶といたします。
また,関連事業として,トーマス永井絵画展を10月2日(火)〜8日(月)まで,開催します。
トーマス永井<1886−1966>
トーマス永井(永井富三)は
1886(明治19)年、吾妻郡名久
田村大字横尾村(現、中之条町
大字横尾)に永井良平・かんの
三男として生まれました.永井
家は江戸時代には、横尾村の名
主を勤めた名家です.曽祖父永
井隆助(常山・1805−1859)は、
日本画を柿沼山岳(1774−1859)
に学び、その子専蔵(文露)も
文人として才能を発揮するなど、
文芸の適にも明るい家風でした.
富三は、1904(明治37)年3
月に群馬県立農学校(現、中之
条高校)を卒業し、二年後、19
歳で本格的に絵を勉強するため、
アメリカに渡りました.1924
く大正13)年から1927(昭和2)
年までニューヨークの美術学校
(アートスチユーデンツ・リーグ)
で学び、トーマス・ハート・ペントン
(Thomas Hart Benton)に師事しました.当時、ニューヨークには、5,000人余りの画家
がいて、この道で生計を立てて行くことは決して、簡単なことではなかったといいます.
そんな中、彼は、師の魔術的リアリズムの作風を忠実に消化、東洋・日本的なクツチを加
え、独特な作風を確立していきました。その後の活躍はめざましく、
柑29(昭和4)年、代表件rピクニック」をアンダーソン・ギャラリーズヘ出品.
1934く昭和9)年、インターナショナル・ウォーターカラー・ショーに出品.
1935く昭和10)年、ニューヨークのラ・サール・ギャラリーと口一リッチ美術館に出品.etc,
アメリカでは日系人画家として高い評価を得、1940(昭和15)年頃までは、作品も相当
売れ、順調な生活を送りました.ところが、1941(昭和16)年、日米開戦のため、作品の
貫い手が無くなるばかりか、敵国人として登録され、苦悩の日々を過ごすことになりまし
た.
戦後の混乱も治まった昭和30年代に日本の親族に宛てた手紙には、ボーラ夫人とともに
元気に生活している様子が伝えられています.そして、1966(昭和41)年、フロリダで亡
くなります.その後、ボーラ夫人のもとに大切に保管されていた遺作、遺品百数十点が夫
人の逝去とともに人手にわたり、所在がわからなくなっていましたが、1994(平成6)年、
ボストンで発見されました.
1995(平成7)年、東京都庭園美術館で開催された「アメリカに生きた日系人画家たち」
の展覧会でトーマス永井の作品がはじめて日本に紹介され、翌1996(平成8)年には生誕
百十年を記念して本格的な回顧展「トーマス永井の不思議世界」が東京・第一生命南ギャラ
リーで開催されました.1999(平成11)年、書三の母校中之条高等学校は、創立百周年妃
念事業として、作品6点を購入しております.