町1 林昌寺の画像板碑 (町重文)
高さ120cm.上幅33.3cm.下幅36.0cm.厚
さ4.0cm。画像板碑には文永8年(1271)の
銘があり、上部に瓔珞(ヨウラク).下に弥陀一
尊の立像.左右に花瓶(ケビョウ)一対が陰刻さ
れている。保存状態も良好である。 |
町2 稲裹神社の懸仏(町重文)
一面は径31.1cm.厚さ0.5cm青銅製虚空
像他2体が鋳出され、他の一面は径19.5cm
中央に阿弥陀像。それぞれ鎌倉時代・室町
時代の作と推定できる。神社は稲裹山に奥
院をもち、三代実録に元慶4年(880)昇叙
の記録をもつ国史現在社である。 |
町3 瀧澤不動尊の石仏 (町重文)
像高24.0cm.膝張り17.0cm.奥行19.0cm。
損耗しているが中世の石仏は郡内唯一のも
のであり、不動堂墓地には南北朝期の五輪
塔が散在,中より発見されたものである
凝灰質砂岩の如来座像で欠損部もあるが
大部分が残されている |
町4 一場家文書 (町重文)
戦国時代の古文書があり、特に初期の真田
藩政や狩宿関所の状況を研究する上に貴重
なものである。 |
町5 折田家文書・附軍旗(町重文)
戦国時代の古文書(武田信玄朱印状・真田信
幸朱印状)と近世初期の文書があり、中之条
町を知る貴重な資料である。「諏訪大明神」
神号軍旗は武田信玄下賜のものといわれる |
町6 小渕家文書(町重文)
近世初期の古文書であり、「足利領折田
改帳」には、江戸初期に活躍した真田家臣
の給人制度を知る貴重な資料である。 |
町7 田村家文書(町重文)
田村家先祖・雅楽尉が文禄の役に従軍、恩
賞を受けた文禄元年(1592)の真田信幸朱印
状など戦国時代から近世初期の中之条町を
知る貴重な資料である。また長槍は文禄の
役後に使用したものと伝えられている。 |
町8 折田家八幡宮棟札(町重文)
棟板は領内安全祈願のために八幡宮再建を
した棟板で、永禄8年銘1(1565).天正18
年銘1(1590)のもの。文面から折田将監寿
賢がこの地の地頭であったことがわかる。 |
町9 吾嬬神社神像群
附・棟板絵馬(町重文)
神像4体.棟板2枚.絵馬2枚。神像1体
には永正2年(1505)の銘がある。神像に年
記のあるものは極めて少なく、年代判定の
基準になるものである。他に慶長17年・宝
暦6年の棟板.宝暦8年の絵馬が2枚ある |
町10 旧大岩学校(町重文)
木造茅葺平屋建.間口7.27m(4間).奥行
10.91m(6間).面積79.35m(24坪)。
明治12年(1879)の建築。翌13年から昭和29
年まで使用する。山間の明治小学校建築と
しては県下唯一のものである |
町11 旧五反田学校(町重文)
木造平屋建.入母屋造.亜鉛鉄板葺.間口
50.9m(28間).奥行9.91m(9間)。明治43
年(1910)建築で、建築記録もあり学校建築
の様式・費用等を知ることができる。 |
町12 澤渡の画像板碑(町重文)
高さ95cm.厚さ3.3cm.幅・上28.0cm.下
30cm。緑泥片岩で上部に阿弥陀如来像.「文
永7年(1270)12月」の銘を刻み、天蓋・瓔珞
周画線のある「武蔵型板碑」である。 |
町13 稲荷神社の絵馬(町重文)
俗称・稲荷石稲荷社(トウケシイナリ)は、長岡稲荷
と呼ばれ,江戸初期(寛永2年以前)より信
仰が厚かった社で、奉納された長岡稲荷祭
礼図絵馬には、万延2年の銘がある。 |
町14 地租改正の絵図(町重文)
地租改正( 9 14 )の基本となる田畑の測量
大絵図の貼合わせ等の作業を絵図に記して
ある。測量の器具,関係の役人、土地の人
達の風俗も示されている。 |
町15 旧須賀神社本殿(町重文)
一間社入母屋造りの本殿は、19世紀の中期
の造営と推定できる。社殿のまわりから板
軒まで彫刻で、彫刻の塊のような外観であ
る。俗称・大国魂神社(英霊殿)という。 |
町16 町田延陵関係資料と墓碑(町重文)
延陵は、江戸時代に著名な数多くの学者と
交流,多数の書物.立派な書を残す。また
中国古典の版木等つくって書道の普及に尽
くした。墓碑は高弟一場陵雲(善福寺24世)
が王義之中心の書から集字刻している。 |
町17 稲裹地神の碑(町重文)
稲裹神社は、平安時代の三代実録に記載さ
れている古い神社で稲裹山上にある。里宮
の譲葉に稲裹神社信仰を記した碑があり
当時の神社信仰を知る貴重な資料である。 |
町18 福田宗禎(浩斎)の墓碑(町重文)
吾妻蘭学の中心人物、高野長英の弟子福田
浩斎翁碑.その子福田軌斎文同碑は、両者
の実績を知る上で貴重な資料である。<宗
禎は代々襲名の名前で、本名は浩斎> |
町19 高橋景作関係資料と篁庵先生追遠碑
(町重文)
江戸時代・天保の頃、高野長英の高弟とし
て私塾「大観堂」の塾頭した高橋景作の生誕
地で長英関係文書・蘭医学・国学・漢学の
書籍、書画が多く保存されている。 |
町20 吾妻神社の献額(町重文)
元郷社で社殿の彫刻の素晴らしい。奉納さ
れている天保8年の絵馬,文政6年の句額
(近郷の俳人達の肖像画),明治11年の算額
等が奉納されており、化政期の俳人動向を
知る貴重な資料である。 |
町51 神保俊二郎家(町重文)
江戸時代末期に材木商となり,主に江戸の
材木商・太田屋徳九郎との取引で財をな
したが,特に文政12年(1829)の江戸の大火
で巨額の冨をえ,離れ・土蔵などの普請を
行った。以後も豪商・豪農として栄えた
群馬県下でも稀に見る大規模の家で,建築
学上からも貴重である。主家は切妻造り平
入り総2階,出し梁造りで,母屋1棟,書
院1棟が指定対象である。 |
町52 市城の古塔(町重文)
この古塔は,宗本寺の宝篋印塔,長福寺の
五輪塔(伝・吾妻太郎の墓)と共に「吾妻の
3古塔」という。台石上の基礎に「応永21
年11月20日中澤重清」の銘文,円形軸部の
四面に梵字が刻まれる。室町時代初期の特
徴をよく伝える。また,市城の歴史とも結
びついた伝承も伝わっている。 |
町53 永林寺の梵鐘(町重文)
寛政8年(1796)11月吉日。旅籠と医師を代
々兼ねていた丸大福田屋4代の当主宗禎が
徹翁徳随居士(宗禎の父か?)他4人の菩薩
を弔って梵鐘を寄進した。地元原町の鋳物
師:小嶋七左衛門の製作で。沢渡の大火で
資料消失した今日,貴重な資料である。 |
町54 宗本寺本堂の欄間(町重文)
宗本寺は,応永元年(1394)の創建であるが
以後2回の火災に遭い,現在の本堂は寛延
3年(1750)に再建された。遺構の欄間彫刻
は,建造51年後の享和元年(1801)から天保
13年(1842)の41年間にわたる間に,檀家
の努力による寄進ででき上がったものであ
る。彫刻師は,享和の物は花輪村(現:勢
多郡東村花輪)の高瀬忠七。文化年間の物
は,萩原平蔵。天保年間の物は定運で,共
に勢多郡富士見村米野の上州での有数の彫
刻師の作である。また,彫刻年代と彫刻師
が判明しているのも貴重な資料といえる。 |
町55 薬師堂のお籠り堂(町重文)
薬師堂の前にある「籠堂」は,江戸時代初
期の慶長19年に建造された。現状は,間口
5.8×約12尺の長方形籠堂が,中央の3.3尺の
通路を挟んで両側に1つの棟屋根で建つ。
この「籠堂」は,湯治客が病気平癒のため一
定期間"心身を清め,堂に籠もって「参籠(お
こもり)祈願」"をした。期間中は,読経,称名
念仏,題目をし,また断食や水垢離(みずごり)な
どの荒行も行われた。 |
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